雛人形や雛飾りはいつから始まったの?

2020年09月18日

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〇中国伝来!上巳の節句におこなわれた「流し雛」が雛人形のルーツ

 

雛人形のルーツとなる行事が、遣隋使によって中国からもたらされたと聞いて、驚く方も多いことでしょう。

古代中国では、陰陽五行(いんようごぎょう)思想に基づき、奇数が重なる日に邪気を祓う行事がおこなわれていました。陰陽五行思想では、奇数を陽数、偶数を陰数として、陽数である奇数が重なる日には陽が極まり陰に転ずると考えられており、邪気払いの行事をおこなっていたのです。3月3日の上巳節(じょうしせつ)、5月5日の端午節(たんごせつ)、7月7日の七夕節(しちせきせつ)、9月9日の重陽節(ちょうようせつ)がそれにあたります。1月だけは1日(元日)を別格に扱い、7日を人日節(じんじつせつ)としました。「節」は季節の変わり目のこと、日本語の「節句」にあたります。

 

「上巳」は3月最初の巳(み)の日をさしますが、後に日が変動しないように3月3日に定まりました。この日、中国では水辺で身を清め、宴会を催して邪気を祓う風習がありました。これが奈良時代の日本に伝わると、「上巳の節句」として奈良・平安の宮廷行事に取り込まれます。水辺で身を清める風習は、日本の禊祓(みそぎはらい)や人形(ひとがた)流しと融合。紙や草木で作った人形で身体を撫で、自分の災厄を映して海や川に流してお祓いをしたのです。この人形が雛人形の始まりと考えられています。

 

一方、宮廷では庭園を流れる小川に沿って座り、歌を詠んだり酒を飲んだりする「曲水(きょくすい)の宴」が催されました。旧暦の上巳の頃には桃の花が満開になります。生命力の強い季節の植物は邪気を祓うと考えられていて、宮廷に桃の花を飾り、不老長寿の薬効があると信じられていた桃花酒を酌み交わしたといいます。医学が発達した現代と違い、病が死に直結する時代を生きる人々にとって、無病息災は切なる願いだったのでしょう。

 

〇平安朝の人形遊び「ひいな遊び」とあわさりお雛さまの原型が誕生

 

宮廷で「上巳の節句」が盛大に行われていた頃、平安貴族の幼いお姫さまたちは「ひいな遊び」と呼ばれる人形遊びを楽しんでいました。「ひいな」は「雛」のことで、小さくてかわいらしいという意味。宮中に見立てた簡素な御殿に紙や布で作った人形を操って遊ぶ “おままごと” でした。いつしか、この「ひいな」が上巳の節句に用いられた「ひとがた」と融合し、雛人形の原型が生まれたといわれています。

 

同じ頃、流し雛から派生して、赤ちゃんのを守る「天児(あまがつ)」や「這子(ほうこ)」といった身代わり人形も登場します。生まれたばかりの赤ちゃんの枕元に置き、赤ちゃんにふりかかる災厄を身代わりになって背負うお守りでした。これもまた雛人形のルーツにあげられるもので、室町時代には天児を男雛、這子を女雛に見立てた一対の人形が生まれ、「立雛」へと発展していったともいわれています。

 

〇女の子のお祝いに変化して江戸時代に大流行

 

江戸時代の初め、京都御所で盛大な雛まつりが催されると、江戸城の大奥でも女性たちのお祭りとして華やかにおこなわれるようになりました。幕府は「五節句」を制定し、上巳の節句は「桃の節句」「雛まつり」として女の子のお祝い行事に発展。公家から武家、武家から庶民へと浸透し、天下泰平の世の中にお雛さま文化が花開きました。豊かな公家の暮らし憧れを抱いた人々は、お雛さまを天皇皇后の結婚式に見立てました。三人官女や五人囃子、随身・仕丁とお人形も総勢15人に増え、豪華な段飾りも登場。お祓いの意味合いが薄れ、しあわせな結婚や豊かな暮らしへの願いつつ、飾って楽しむ風習へと変化していきました。

 

大ブームとなった雛人形を支えたのは、大都市に立つ雛市でした。春には江戸の町に雛市が立ち並び、雛売りの声が響いたといいます。雛人形づくりもどんどん過熱し、より華美で大きなものが作られるようになると、贅沢を好まない幕府はたびたび禁令を出したといいます。すると今度は10㎝にも満たないミニチュア雛が流行したのだとか。人々の並々ならぬ愛着が伺われますね。武士も町民もこぞって雛人形を買い求める様子が、浮世絵や江戸文学にも残されています。

 

江戸時代、都市から地方へと急速に普及した雛人形ですが、地方の貧しい家にとっては手の届かない高級品でした。その代用として、土雛や押絵雛といった郷土雛も誕生しました。着物のはぎれ布でつくる縁起の良い人形をにぎやかに飾る「つるし雛」も、そうした郷土雛の一つです。日本三大つるし飾りに数えられる静岡県・稲取の「つるし飾り」、山形県・酒井の「傘福(かさふく)」、福岡県・柳川の「さげもん」は、とくに有名ですね。いまではお雛さまを華やかに演出する脇飾りとしても、たいへん人気があります。

 

〇大きな段飾りからコンパクトなお雛さまへ

 

明治以降の近代化のなかでも、お雛さま文化は廃れることがありませんでした。明治から大正にかけて、関東では15人をひと揃いとした段飾りが流行したのに対し、関西では御所の生活を細やかに再現した「御殿飾り」が流行。第二次世界大戦をはさんで、戦後まで京阪神地区では定番の雛飾りでした。

 

しかし、高度経済成長期を迎える昭和30年以降、御殿飾りは姿を消します。地方色は失われ、デパートなどで販売される雛人形の画一化が進んだからとみられています。全国展開する人形店のコマーシャルにも、豪華な七段飾りが映し出され、定番化していきます。「一億総中流」といわれた昭和40年代以降は、女の子がいるどんな家でも15人揃いの七段飾りが当たり前にありました。

 

あれから半世紀、昭和、平成を経て令和を迎えたいま、雛人形の姿は再び形を変えつつあります。核家族化・少子化がますます進み、若い子育てファミリーは都市部のマンションやアパートで生活することが多くなりました。このような住宅事情においては、もはや大きな七段飾りのお雛さまを出すスペースが確保できません。置き場所だった和室や床の間も姿を消し、お雛さまはお座敷からリビングへと移っていきます。同時に、主流は男雛女雛のみの親王飾や、小ぶりの木目込雛人形など、コンパクトサイズのお雛さまに人気が集中。かわりに、多様化するニーズに合わせて、古典的なお雛さまからモダンな雛人形まで、デザイン豊富なお雛さまが次々と誕生しています。

 

人形工房ひととえでは、マンションサイズのモダンでおしゃれな雛人形を、伝統的な人形づくりの技術で一つひとつ大切におつくりしています。オリジナリティを求める若い世代の感性を大切に、セミオーダー感覚でお楽しみいただけるカスタマイズにも力を入れております。ぜひ、オンラインショップもご覧ください。